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2014-07-28 Mon [ 技術屋の独り言 ]
by su
友人の手伝い中に話していると、なんでこんなに詳しいのと言われたから、載せてみようと。イメージは、イスラム=中東戦争=イスラエル=ユダヤ=石油=イラクだと思いますが、なぜ70年以上も、これだけ戦争や内戦が起こってるのか書いてみます。 1450年頃の話からになりますが、中東での大きな問題は、まず最初に「アヘン」次に「宗教」その次に「戦争」最後に「石油」です。特に石油(1850年代)とレシプロエンジン(1850年代)が、結びついてからは、利権を争い中東以外の諸外国も、積極的にこの地域に関わってきました。このお蔭で今も紛争が収まらない地域と化しています。膨大な石油が眠っていると明らかになるのは1900年頃です。 元々中東一帯には、オスマン・トルコ帝国というでかい国がありました。1683年の支配写真を参照してみますとカスピ海、黒海、地中海、紅海、ペルシャ湾と陸路も海路もほぼ掌握しているのがわかります。まず最初に出てきた「アヘン」と「香料」が深く関係してきます。当時はアラビア半島は砂漠しかない過疎地だったので、アラビア半島を巡って争いが起こることはありませんでした。この帝国が特に勢力を拡大し始めたのが1450年ごろでした。 ![]() 同じころ今のヨーロッパでは大航海時代でした。この大航海時代が起こった背景にはオスマン帝国も大きく関係していて、帝国が中東地域を完全に制圧してしまったため、その向こう側との陸路を使った貿易が出来なくなってしまった。そこで、陸路がダメなら海路だ、という訳です。日本がちょうど戦国時代だった頃、大航海のまっさかりでした。そして日本にもこの恩恵として「武器」と「茶器」と「香料」と「宗教」が入ってきました。学校の授業では、シルクロードは香料貿易が盛んだったと教えられますが、香料の6~7割がアヘンだと思って間違いないと思います。 ![]() 大航海時代が始まり50年、文明が発達していないアフリカとアメリカに侵攻し、それから100~200年が過ぎた日本としては平和な江戸時代の1650年頃、大航海時代は探検から植民地支配にシフトしていきます。ヨーロッパのほぼ全ての国が他国植民地化に成功しました。このヨーロッパの国が世界中の国々を植民地支配していく事が、その後の世界の歴史に大きく影響する事となります。 1700年頃からオスマン帝国は、ヨーロッパの国との戦いに徐々に押され気味になり、今でいう中東・北アフリカに押し込まれていきます。これは、大航海時代にヨーロッパ諸国がインドに会社を置いた海上交易において得た資金が大きいと思います。 それから100年後の1798年7月、フランスの英雄ナポレオンはエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城しました。これは、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえることが、どれほど重要だったかわかる大きな歴史の転換期で、これにより帝国は、北アフリカでの覇権を無くしました。ここからは暫くは年代だけで歴史を振り返ります。 1840年、清と英の間で第一次アヘン戦争 1852年、ペリー日本に来航 1853年、クリミア戦争 1856年、清と英仏の間で第二次アヘン戦争 1858年、江戸幕府がアヘン輸入禁止条約 1863年、薩英戦争 1864年、ロックフェラー石油事業進出 1869年、スエズ運河開通 1870年、スタンダード石油設立 1873年、バクー油田発見 1908年とんでもない大発見がありました。中東地域に超莫大な原油が眠っていることがわかりました。この石油によって、ただの砂漠だったアラビア半島は大きく変わってしまいます。中東が油田の宝庫である事が判明すると、各国は一斉にこの地域の利権を求め始めます。ちょうどこの頃は、安い石油が求められていた頃でした。 そんな時代背景の中、1912年第一次バルカン戦争、1913年第二次バルカン戦争、1914年第一次世界大戦でオスマン帝国はドイツ側として参戦しますが、ドイツが敗れてしまいます。石油を持っている国が戦争に負けた、というのは戦勝国だったイギリスやフランスにはとても大きなチャンスです。すかさず2国とソ連は極秘に協定を結びます。1916年5月16日にサイクスピコ協定を3国間で締結され、オスマン帝国は実質滅亡します。中東の油田を分割して支配し、これらの領土を植民地化します。この時、自分達の都合の良いように領土分けを行ったため、これが後に中東の国々が、それぞれ領土の権利を主張して戦いあう元凶になりました。その後、1924年にオスマン帝国は完全に滅亡します。 中東はイギリスとフランスの植民地支配によって安定を保っていましたが、1939年に第二次世界大戦がおこります。第二次世界大戦中、ドイツの総統ヒトラーは自民族の優越性を主張し、嫌っていたユダヤ人へのホロコーストを始めます。この時に虐殺されたユダヤ人は600万人、当然その被害を受けないよう、隠れたり逃げたりしました。1945年大戦が終わった後、その難を逃れたユダヤ人はドイツに舞い戻らずに、大挙して中東に押し寄せました。ユダヤ教の聖典で、キリスト教の元でもある旧約聖書に、こんなことが書かれています。 「エジプトの奴隷として迫害を受けていたユダヤ人を率いて、モーゼは海を割いてエジプトを脱出した。そして放浪の末、神の指し示した土地であるヨルダン川の西に、自分達の国を作った。」 第二次大戦後、ユダヤ人はその聖書の記述を今の自分達と照らし合わせましたが、このヨルダン川の西には、実質イギリス植民地のパレスチナという名前のアラブ人の国がすでにありました。普通に生活していたパレスチナに、いきなりユダヤ人が大量に押し寄せて来ます。帰れと言っても帰りません。「なぜここに来たんだ」というと「ここが神の示した土地だからだ」と言います。そして、無理やりそこに住み着いてしまいます。ドイツがユダヤ人に対する迫害を非難していた戦勝国は、ユダヤ人を排除できず、パレスチナを支配するイギリスは、当時発足したばかりの「国際連合」に「助けてくれー」と対処を要請、そして国際連合は「じゃあ、半分こずつにしましょうね」と決定しました。 ![]() 当然パレスチナは激怒、しかし、ユダヤ人側も国連の正式な決議を受けましたから、それを元に イスラエルを建国してしまいました。またアメリカとソ連がこれを直ぐに承認しました。これにアラビア半島のアラブの人々は猛反発、そりゃ当然ちゃ当然ですよね。 勝手に来たイスラエルが建国した当日、エジプト、シリア、ヨルダン、サウジアラビア、イラク、レバノンの連合軍が攻め込んできました。これが1948年第一次中東戦争です。しかし、すでに後のない背水の陣のイスラエルはさすがに強く、またイギリス、アメリカ、ソ連の後ろ盾もあり、アラブ連合軍はボコボコに負けてしまいます。そしてイスラエルはヨルダン川の西側地区を完全に支配してしまい、元々パレスチナに住んでいた人々は難民化します。 一方、負けてしまったアラブの国々では、2014年現在と同じ状況ですが、当時の政府に不安視し内戦状態に入っていきます、1952年エジプト革命が起こり、イギリスの植民地だったエジプトが独立を宣言しました。イギリスも独立まではオッケーだったんですが、スエズ運河をエジプト政府が国有化を発表して大激怒します。国有化するまでのスエズ運河の通航料は、イギリスとフランスの懐に入っていました。ここで、1956年第二次中東戦争勃発、イギリスとフランスとイスラエルの連合国とエジプトの戦いです。戦いが始まるとイスラエルはシナイ半島の大部分を占領支配しましたが、国連の停戦合意に渋々従うしかなく、エジプトはスエズ運河の国有化に成功しました。 1967年第三次中東戦争、ソ連の諜報活動により徴発されシリアとエジプトが勝手に戦争準備を始めてしまった事が発端で、そこにイスラエルが宣戦布告なしの奇襲攻撃を仕掛けてきました。スエズ運河が国有化出来ていたのにもったいない話です。…で結果は、ゴラン高原、シナイ半島、エルサレム、ガザ地区を占領し停戦合意しました。この戦いでシリアはイスラエルに喧嘩を売るのを一切放棄しました。 ![]() 1973年第四次中東戦争、イスラエルvsエジプトの激突です。ちょうど日本でもオイルショックがあった時期です。スエズ運河を挟んでイスラエルとエジプトが対立する図式が第三次戦争から続いていていて、たった20日間で双方25000人の戦死者を出す大惨事になりました。結果、イスラエルがシナイ半島の非軍事化に合意し、エジプトとの平和条約が締結され、スエズ運河は、アメリカ・イスラエル・エジプトの連合国で統治する合意が決まりました。 報道などではイスラム教のスンニ派、シーア派とありますが、この報道が更に話をややこしくしているだけで、クルド人として話の流れを考えると歴史が見えてきます。クルド人とは、第一次世界大戦で滅亡したオスマン帝国であり、サイクスピコ協定でトルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断された、世界最大の国を持たない3000万民族集団だということです。そしてクルド人国家を作ると約束したことも反故にされ、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の共通の聖地であるエルサレムを分割し、ユダヤ人に占有させることを認めてしまった事が、中東問題と言われる所以です。 ![]() イスラム教の9割はスンニ派で1割がシーア派です。サウジアラビアはほとんどの人がスンニ派で、イラクは混在ですが、支配者層の大半の人はスンニ派、サダムフセインもスンニ派でした。また、イランはシーア派国家で、原理主義と呼ばれるスタイルを取っています。この2つの派閥は、イスラム教が分裂した時からずっと対立しており、これがそのままアラブの国々の対立にもつながっています。またそこには石油があるわけですから、最悪です。 1980年、大きな戦争が起きましたイランイラク戦争です。この戦いは8年も長く続いた戦いですが、「宗教」と「石油」を浮き彫りにした戦争と言えるでしょう。要するに現世に存在する戦国時代というべきか。1988年にイランのほぼ無条件降伏で戦争は幕を閉じました。サウジアラビアを実質支配していたアメリカの傀儡政権としてフセインは強かったのですが、イイ戦争が終わった2年後の1990年にクウェートにイラク軍が進軍し第一次湾岸戦争が勃発します。 クウェートは石油産油国で、国土の広さはイラクの1/10以下なのに、そこから出る石油はイラクとほぼ同じ、それを石油輸出国が取り決めた輸出量を無視してガンガン売りまくっていました。しかも、クウェートは場所的にも輸出に最適な場所で、大規模な輸出港もありました。それでいて、クウェートは小さな国で軍事力はほぼありません、しかも王様政治が続いていて、民衆の暮らしはあまり良いものではありませんでした。イイ戦争で疲弊した国を立て直すには最高に良い進行先でした。 この頃、もう一方のアメリカは失業率が増えてピンチな状況でした。その大きな理由は、戦争をするための武器が売れなかったからです。そしてこの失業率の増加で不景気になり、その後就任するブッシュは、大統領選挙で苦戦を強いられていました。そこに、イラクのクウェート侵攻の情報が入ってきました。クウェート侵攻はアメリカは事前察知していたと思います、ってか、ソ連、イスラエルも事前察知していたと思います。 イラクはこの問題をイスラエルとの問題と結びつけるため、イスラエルにスカッドミサイルを打ち込みますが、イスラエルも今回は国連軍の出番なので耐え忍びます。またブッシュとクリントンの予備選挙が始まるタイミングでもあり、1991年1月にアメリカはイラクに侵攻を開始、当時のブッシュの支持率は歴代最高の89%に急上昇しました。徹底的な空からの攻撃と弾道ミサイルで要塞を破壊したのち、地上部隊がイラクに侵攻、イラクの戦車は欠陥もあって役に立たず、地上戦開始数日でイラクは降伏しました。 しかし、イラクのフセイン大統領の政権はそのまま存続します。理由は、フセインの潜伏先が不明だということ、クウェートがフセインを倒さないよう泣きついた、サウジアラビアもクウェートも王政国家だったので、民主政権が作られるのを拒んだのが最大の理由かと思います。戦後またアメリカ経済は不調を極め、ブッシュは支持率を維持する事が出来ずに大統領選挙で落選しました。 同じころ、ソマリアの内戦状態に介入していたアメリカ軍が、アディード将軍を逮捕するため、特殊部隊デルタ・フォースを出動させます。しかし、逆襲に合い輸送ヘリ、ブラックホークが撃墜されてしまいます。詳しくは映画見てください。市民達が楽しそうにアメリカ兵の死体をジープで引きずり回す画像です。アメリカのビルクリントンは、こういった背景も加味してか、1993年にオスロ合意を仲介し、イスラエルのラビン首相、パレスチナのアラファト議長、アメリカのクリントン大統領が平和的合意に達したが、それは茶番だった。オスロ合意の翌年1994年にノーベル平和賞を受賞したイスラエルのラビン首相は、1995年に暗殺された。 ![]() 暗殺されオスロ合意の5年後は反故されるのは決定的となった。またイスラエルは戦争に強く欧米諸国の支援もあるため、中東の国は国家同士の戦争を避けるようになりました。また中東諸国はそれぞれ普段敵対しているので、共同で戦おうとしても完全に協調が取れないのも原因でした。普通に戦っても勝てない相手に被害を与えるにはどうすればいいか、そんな中で生まれたのが「テロ」です。戦争において、テロ行為のようなものははるか昔からありましたが、昔は爆弾なんてありませんでしたので、小規模または個人がロケットランチャを片手に特攻をかけても、たかだかしれていました。しかし爆弾が登場した事によって、1人の人間が重大な被害をもたらす事が可能になりました。 中東諸国には、イスラエルや敵対勢力に対抗する小さな勢力がたくさんあり、そういった小さな勢力が大きな相手に被害を与えるのに「テロ」という手段を使い始め、そしてそれを大国が利用しようとして、資金的にバックアップなどをし始めました。「アルカイダ」は「スンニ派」のテロ組織でイラクの支援を受けている、「ハマス」は「シーア派」のテロ組織でイランの支援を受けていると言われています。これらの組織は、イスラエル、アメリカなどは共通の敵ですが、お互いも敵対しています。 そんな中、1998年アメリカ大使館爆破事件が起こります。アルカイダのオサマビンラディンの犯行とされ、ケニアとタンザニアで同時に相当大多数の被害者が出ました。アメリカにしてみればCIAをおちょくられた犯行でした。そのまま続けます。2000年にイエメンに停泊中の米国海軍駆逐艦「コール号」への爆弾テロ、2001年アメリカ同時多発テロ事件と続きます。 このテロを起こしたアルカイダの支援を行っているのはイラクだということで、2003年に再びイラクへの攻撃を準備し始めます。また、イラクが大量破壊兵器を保有している事を理由に、これを排除するための多国籍軍の協力を諸外国に要請、再びアメリカ主導の多国籍軍による第二次湾岸戦争が勃発しました。この時点でのWTI原油価格は30ドル/バレルを推移していました。 第二次湾岸戦争は、地上侵攻戦をも含み、戦闘期間の長いものになりましたが、首都バクダッドも陥落し、主要拠点は弾道ミサイルによって破壊され、イラクのフセイン政権は完全に崩壊し、アメリカ軍にフセイン本人も掌握されます。獄中記でイランを中東諸国にとってイスラエル以上の脅威であると評しており、イランのイスラム体制の指導部を過激派と呼び、嫌悪していたという。また、アルカイダとの関係についても否定し、オサマビンラディンを狂信者と呼び、交流することも、仲間と見られることも望んでいなかったとし、逆にアルカイダを政権にとっての脅威と捉えていた。 問題の大量破壊兵器は見つからず、2006年に死刑執行された。世界経済は安定していたかに見えたが、WTI原油価格は60ドル/バレルという3年前と比べ倍に価格が跳ね上がりました。2007年には70ドル/バレルに、2008年には100ドル/バレルになり、2008年9月リーマンショックが起こりました。2009年に入るとアメリカに新しい大統領オバマが出てきました。2010年になるとアラブの春が起こり、2011年1月にはエジプトのムバーラク大統領が辞任に至った革命が起こった。同2月にリビア内戦、同5月にオサマビンラディンがアメリカ軍により殺害され、同10月にリビアのカダフィ大佐が殺害された。 2012年に入ると、パレスチナは国連への加盟申請を表明した。2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まった。同年末にはアラブの春から長期化しているシリア騒乱における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾し、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生した。 2013年に中東和平交渉が再開された。同年7月29日ワシントンDCにおいて、アメリカ政府の仲裁によりパレスチナ和平が再開された。ケリー国務長官が外交をし、ガザ地区にパレスチナ国家を作り、中東を安定させることを目指す内容だ。イスラエルは交渉再開に先立ち、104人のパレスチナ政治犯の釈放を決めた。104人は1993年のオスロ合意以前から拘留されていて、5年後以降の1999年頃に釈放されるはずだったが、前述の内容により釈放を履行しなかったが、イスラエルも相次ぐテロと経済の不安定さに疲弊していて、どちらかというとイスラエルがパレスチナと優位に和平したい思惑があった。 同年7月、場所は変わってエジプトではクーデターによりモルシ政権が倒れた。パレスチナの資金供給先である後ろ盾を失った。クーデターにより新政権になったエジプトは、パレスチナのガザ地区と繋がっているエジプト側の地下トンネルの大半を破壊した。ガザ地区で必要とされる食料や物資、燃料の大半はエジプトからの密輸トンネルで搬入されていた。そのトンネルが無くなり、ガソリンは2倍に高騰し、失業率は27%から44%まで拡大した。 同年8月14日イスラエル政府はパレスチナ服役囚26人を釈放した。2回目は同年10月31日26人を釈放した。3回目は同年12月31日26人を釈放した。4回目は2014年3月末に予定されていたが、イスラエル政府は中止と発表した。パレスチナが国際条約への加盟申請を強行したためだ。アメリカ仲裁和平交渉の期限は、同年4月末と決まっていて決裂の危機が迫りだした。イスラエルの言い分も最もで、服役囚の釈放だけが粛々と進み、交渉が全く進展しなかった。 ![]() 2014年7月8日よりイスラエル軍によるガザ地区に対する軍事行動が開始された。約10日間に及んだ空爆後、18日にはガザ地区への地上侵攻が始まりました。この地上侵攻の目的は、ガザ地区から掘られた地下トンネルの制圧です。イスラエル軍が強硬策に出ていない通常期は、頻繁にガザ地区からのロケット攻撃が行われています。ハマスは射程4kmから75kmのロケットを保有していて、軍事行動が始まった7月8日以降も、1000発以上のロケット弾がイスラエルに向け発射されています。この攻撃はイスラエルの人口密集地を狙ったもので、イスラエル全国民の約70%にあたる500万人以上がその射程圏内で生活しています。このように、イスラエル国民の相当数は、日常的に脅威にさらされています。イスラエルとハマスの紛争は、エジプトが仲介して停戦を結ぶ事もありました、今回はエジプトの停戦案をハマスは蹴っています。ハマスはトンネルを封鎖したエジプト新政権の仲裁を受ける訳にはいかなかったのかもしれません。 今回の紛争でイスラエルの死傷者と比べ、パレスチナ側の方が格段に被害が大きいのは間違いありません。この被害の差から、圧倒的強者イスラエルと弱者パレスチナという構図で報道するメディアが多く見られます。今回のイスラエルの軍事行動を非難するのは簡単ですが、頻繁に市街地にロケット弾を撃ち込まれ、子供が誘拐されるような環境にある国の住民が、穏当な手段を望むでしょうか。イスラエル国防軍の広報では、紛争が始まって以降、フェイスブックに頻繁にある一文を載せた画像を掲載しています。 ![]() ロケット攻撃に晒されるパリを背景に「貴方ならどうする?」と問いかけています。イスラエルでは、政府より国民の方が極端な措置を要求し報復を求めています。 一部あちらこちらから文章を引用しました。
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